こんにちは!
昨日は防災の日だったので防災の話題を。
行幸通り地下の防災展示と防災訓練
先日から行幸通り地下で震災関係の展示をしている。
写真の一部。このスペースは定期的に企画モノの写真の展示が有って興味深い
そして地上では防災訓練を終えた丸の内の大家さん(三菱地所)社員の姿が
そう、関東大震災当時、丸の内も大きな被害を受けつつ、でも持ちこたえた丸ビルで炊き出しなどが行われたという歴史がある。それをうけて今でもこの時期になると三菱地所さんは防災訓練をやるのです。
当時(というか開発以来)の様子を記録したこんな本を見てみると…
昭和27年発行の非売品(神保町で捕獲)
崩れ落ちる警視庁(現在の丸の内警察署の位置)など
救護作業の様子。杏雲堂病院(今も駿河台にある)の名前がある
行幸通り地下の展示写真とだいぶ被ってますな。
江戸より前の大丸有~日比谷は入江だった関係で、この辺りは大震災時には特に激しく揺れたと言われているのだよね。建物の不燃化が進んでいたので火は(他に比べて)出なかったが、建物は大なり小なり壊れた。
その辺の事情についてはこちらのブログなどは参考になる。
あと、東京全体の地理史についてはこの本が詳しい。おすすめです。
神田も丸焼け
丸の内が上記のような有様だった状況で当時人口密集地だった神田がただで済むわけもなく…
関東大震災の延焼状況
関東大震災の被害状況:防災科学技術研究所 自然災害情報室 - DIL
神田、丸焼け。
まあこの状況は「神田が焼けた」というよりは、むしろ「神田も焼けた」というべきなのだろうな。
神田も含めて当時の街は木造建築中心だったことが災いし、神田、浅草、芝、本所、深川といった江戸からの街がすべて灰燼に帰した。
四方から火に囲まれつつも消火に尽力して奇跡的にも街を守りきった神田佐久間町(被害状況図中央右上、被災地域中央にぽこっと白抜きになっている部分がそうだ)などの例外もあるが…
神田淡路町震災紀念碑
そんな大火のなか、神田では当時珍しかった鉄筋コンクリート造の建物、東京商工学校(現埼玉工業大学)校舎が震災復興の拠点として大いに活用されたことを紀念する碑が、本郷通沿い、連合会館の脇あたりに今も建っている。
紀念碑。イチョウが共に植えられたと碑文にあるが樹は見当たらない
碑文の内容はこちらからどうぞ
少し歩くとニコライ堂から御茶ノ水駅に抜ける途中にあたる。ニコライ堂も大震災で大きな被害を受けた。
震災で損壊しつつも見事再築を遂げたニコライ堂
皆様も週末などに、御茶ノ水~震災紀念碑~佐久間町~浅草橋という震災に思いを致す神田散歩などは如何だろうか。