こんにちは!
今回は、前から何度も書いてみようと思っていつつもそのままになっていた、「下町」の定義の話。
下町(イメージ)
昔から、下町ってどこのことを指すのか疑問に思っていた。いい機会なのでブログのネタとして使いがてら少しでもはっきりさせてみたい。
今回はどっちかと言うと自分の心得のために書いたので、写真少ないし文章超長いし、かつ退屈です。奇特で暇な方はどうぞ。
大前提として、江戸の範囲は以下の通り。
江戸の範囲-天下の大江戸、八百八町というけれど
「下町」と"Downtown"の辞書的な意味
言葉の定義、といえば辞書の領分。というわけでまずは辞書に当たってみよう。
日本語と英語で計三種類引いてみる。辞典によればそれぞれ次のような意味である由。
したまち【下町】
都市の市街地のうち、低地にある地区。主に商工業者などが多く住んでいる町。東京では東京湾側に近い下谷・浅草・神田・日本橋・深川などの地域をいう。⇔山の手。「━育ちで威勢がよい」
した‐まち【下町】
低い所にある市街。商人・職人などの多く住んでいる町。東京では、台東区・千代田区・中央区から隅田川以東にわたる地域をいう。しものまち。「―情緒」⇔山の手 上町 かみまち。
出典:広辞苑第六版
Downtown
The lower or business part of a town or city.
出典:Home : Oxford English Dictionary
つまり、日本語の「下町」にも英語の"Downtown"にも1「低地にある」と、2「商工業者の住む街」の二つの意味がある訳だ。日本語では重点はより1に置かれている。
江戸・東京がアップダウンのある街なればこそ生まれた概念、それが「下町」なのだろう。
大要は分かったけど、でももう少し細かく知りたいなあ。という訳で今度は本に定義を求めることに。
『東京 下町 山の手 1867-1923』
下町について知りたいならば、この本に当たらないわけにはいかないだろう。

- 作者: エドワード・サイデンステッカー,安西徹雄
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2013/11/12
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログ (3件) を見る
日本学の泰斗、サイデンステッカー先生による下町本。何かヒントがあるのでは…という訳で本棚から引っ張り出して読み直してみた。
ちなみにこれは情報量もあり叙情的でもあり、すごくいい本、オススメです。
この本の冒頭で、下町は次のように紹介されている。
下町というのは昔から定義のはっきりしない地域で、厳密に境界を定めることはむずかしい。…西は江戸城、東は隅田川や江戸湾に挟まれたこの地域が元来の下町だった。明治時代の十五の区のうち、下町に入るのは日本橋と京橋、それに神田や下谷の低地部にすぎない。浅草は…江戸の旧市街には入っていなかった。
今日では、隅田川の東はみな下町の一部と見なされているけれども、明治期までは、川の東岸のほんの細い一筋だけが下町に入るとされていた。それも、誰でもがそう考えていたわけではない。
(同書25-26頁)
相変わらず判然とはしない。「昔から定義のはっきりしない地域」と言われてるし…
ただサイデンステッカー先生によれば、一応、日本橋、京橋、神田、下谷、それと川の東岸の一部(本所、深川のことだろう)が「下町」にはいるようだ。
ふむ、定義は大体わかった(ことにしよう)。
下町の広がり
「下町」の言葉としての定義は定義として、それでは今度は具体的にどの辺が現代における「下町」なんだろうか。
まず、辞書の1の定義やサイデンステッカー先生の言う定義があったとしても「銀座も日本橋も大丸有も全部下町だ」と言って納得する人は少ないだろう。だとすると所謂「下町」はむしろ2の定義により定まることになる。でもこっちもやはり一般的なイメージとは少しずれてる気が。例えば大辞林は具体例として次の地名を挙げている。
下谷・浅草(台東区)・神田(千代田区)・日本橋(中央区)・深川(江東区)
神田、日本橋は入ってる一方で「新下町」(どこかで聞いて以来、私はこの地域をそう呼んでいる)と言われる墨田区、足立区、荒川区、葛飾区一帯などは入ってない。
この辺はどうなんでしょ。
論文からの学び
人の褌で相撲を取るわたくし、例によってネットをウロウロしてきたら、面白そうな論文が三本あったのでこれを参考にお勉強。
(1)新聞記事における「下町」イメージの広がりと文脈に関する研究(2015 山田)
http://www.waseda.jp/sem-yoh/temp/14/14yamada.pdf
(2)下町風景に関する人類学的考察(2008 矢野)
http://web.econ.keio.ac.jp/lecture/kpro/2007/03_seika/world/05_yano.pdf
(3)グレイン論に基づく街路の下町イメージに関する研究(2005 田中・福井・篠原)
http://www.jsce.or.jp/library/open/proc/maglist2/00897/2006/pdf/A52D.pdf
(1)と(2)はおそらく学部生の所謂ゼミ論文、(3)は土木学会の発表論文。
どれもなかなか面白いので、ぜひ論文そのものを読んでみてください。短いし。
以下私の切り貼り。
(1)新聞記事における「下町」イメージの広がりと文脈に関する研究
この論文によれば、1985-2014年の間にメディア(朝日新聞のデータベース)における下町として掲載されている地域の出現頻度は以下の通り。
一位 台東区、墨田区
二位 江東区
三位 江戸川区、葛飾区、荒川区、文京区、中央区
四位 千代田区 足立区 大田区
五区 北区
(以下略)
(山田3頁 図2に基づき整理)
明らかに辞書やサイデンステッカー先生の定義とズレている、面白い。
次に、台東区、中央区、千代田区、江東区の下町としてのイメージを、出現頻度上位の墨田区のそれと比較してみよう。
各区が上位三位を占める掲載内容(その他を除く)
台東区: 計画、祭り、催し事、文化、コラム、政治(以上一位)、社会(二位)、経済(三位)
中央区: 過去(一位)、計画(三位)
千代田区: なし
江東区: スポーツ、経済、催し事(二位)、コラム、祭り、文化(三位)
墨田区: 社会、経済、過去(一位)、文化、催し事、コラム、計画(二位)、スポーツ(三位)
(同5頁 表9を基に整理)
こうして見てみると、ラフながらある種の傾向が浮かび上がってくるように思う。
台東区(下谷がある)、墨田区(両国や向島がある)はあらゆる分野において「下町」であるのに対し、中央区(日本橋がある)と千代田区(神田がある)はある特定の分野において「下町」であるか、はてはどの分野においても「下町」ではないということ。江東区(本所・深川がある)はその中間。おいおい、神田(千代田区)は下町じゃなかったのか?
疑問を残しつつ、とりあえず次行ってみよう。
(2)下町風景に関する人類学的考察
この論文では、江戸期、大正期、関東大震災以降それぞれの時点における「下町」は以下の地域を指すとしている。
以下は論文における下町の変遷に関する記述の引用
江戸期の「下町」
城下町という意味で下町と呼ばれるので、その機能を担っていた日本橋と京橋と神田の一部が本来の下町ということになる。しかし下町らしさを伴った地理的イメージは、神田に中心がずれていた。「江戸っ子の中の神田っ子」ということわざがあることに示されている。神田が江戸の中でもっとも江戸っ子の気質をそなえていることを表している。
(矢野5頁)
「下町」の語源は、江戸城の下の町、つまり低地にあったからとされ、 東京のおおむね東側、神田・浅草・日本橋・京橋・本所・深川あたりを指していた。
(同11頁)
関東大震災以降の「下町」
しかし、1923 年の関東大震災で下町の事情は大きく変わった。この震災での被害世帯数は本所 区、浅草区、日本橋区、深川区、京橋区、神田区が、焼失世帯数も日本橋区、浅草区、深川区、 京橋区、本所区で 90%を上回った。江戸から受け継がれた下町風景は、ここで一度断絶したことになる。関東大震災で打撃を受けた下町地区に住んでいた人びとは、新しい居住地としてさらに東の土地を選んだ。それが隅田川以東の地域である。このようにして下町住人は、東へ東へと拡散していったのである。
(同6頁)
葛飾区が下町扱いされるようになったのは、大正12年(1923)の関東大震災以降のことだ。震災で焼け出された下町の人々が被害の少なかった葛飾区などへと移り住んだのである。そのことによって、下町気質や人情が葛飾区内に拡散していった。中でも柴又は、その後の戦災を免れたため、戦後の面影をそのまま残していたという。
(同11頁)
(おそらく)論文の本論部分ではないここを重点的に引用するのはとても申し訳ないのだけれど、下町の拡大の経緯が簡潔にまとまっていたので引用させて頂いた。
上記要約するに、契機になったのは関東大震災。それを機に、これまでどちらかといえば田園地帯や郊外だった葛飾区、江戸川区、荒川区あたりの「新下町」が下町の範囲に含まれてくるようになる。
じゃあ、現代の「下町」についてはどうか。
現代の「下町」
…多くの被験者は下町を完結した一つのエリアとしては認識していなかったのである。下町は「(隅田)川の向こう」であったり、「この辺り」であったりする。下町エリアの西側には、比較的明確なエッジが存在することが多かった。それが山手線や隅田川である。中には隅田川の位置を把握していないにもかかわらず、川の向こう側とする者もいた。このように、下町の終わりの部分が認識されていないことは、下町エリアの心理的な奥行きを示している。
(同7頁)
ここで面白いのは二点。
一点目は、「下町」はやはりぼんやりとしかつ奥行きを欠いた概念なのだ、ということ。
二点目としてそれよりも面白いのは西のエッジのイメージについて。本調査によれば、下町の西のエッジとして、山手線の外、或いは「(隅田)川の向こう」という認識があるらしい。
山手線外側なら神田(岩本町、東神田)も日本橋も入るのだが、川の向こうとなるとその二つは完全に外れる。
ここまでの(2)の論述を見てくると(1)で引いた山田論文の表9の結果が改めて腑に落ちるのである。つまり、千代田区と中央区は半分下町だけれども半分下町ではない。それはおそらく、関東大震災前の「旧下町」ではあっても、大震災後の「新下町」ではないということ。
では「新下町」は何によって「新下町」たりうるんだろうか。
(3)グレイン論に基づく街路の下町イメージに関する研究
グレイン論というのは、「街路構成要素を粒として捉える」手法である(らしいです)。私の理解だと、人がある対象をそれであると認識するための要素は何かを分析するやり方、ということなのかなあと。合ってます?
要するに、この論文は「何があると下町っぽく見えるのか」を調べたもの(こんなまとめ方をするときっと執筆した方にものすごい怒られるんだろうが、私の頭の限界です。お察し下さい)。
もう少し丁寧に言うと、以下引用部分にあるように、この論文は下町の定義における決定要因を地理的要素(どの地域が「下町」なのか)から街並みの特徴や人の活動(どういう特徴がある地域が「下町」なのか)に変えて、地理的要素に依らずして「下町」を定義しようとしている。(1)(2)とは違うアプローチで面白い。
結局、私はこの論文を読んで「下町」と「新下町」のあり方についてだいぶ納得がいった。
本来、下町とは「高台(山の手)に対して低地に開けた町」という意味を持っていたが、時代とともにその範囲も変遷していったと考えられる。
江戸は最初、城の西側に半円形に広がる山の手と、東半分の下町とに分かれていた。明治 30 年代以降東京の労働者層が東京の東側地区に住み始め本所深川が下町化、工業化や戦後復興に伴って、足立区、葛飾区、江戸川区までが下町化した。
現代では旅行ガイドなどで王子や神楽坂といった地理的には山の手に属するような地域も下町として紹介され ることがあり、一方で下町の中心とされてきた神田や日本橋は再開発等により業務地化し、街並み自体の印象は古典的な下町のイメージとは離れている。こうしたことから、現代一般的に語られる下町イメージにおいては、本来の下町の持っていた地理的な要因は希薄になり、街並みの特徴やその場所における人の活動に重点があるものと考えられる。
(田中・福井・篠原2頁)
下町イメージの構成要因
同論文(2頁)によれば、下町イメージの構成要因は以下の三つ(()内は具体例)。
(a)生活感が感じられること(商店外の路上に陳列された商品、民家の前に出された鉢植え)
(b)住民の連帯感が感じられること(路上のベンチ・地域の掲示板)
(c)歴史性が感じられること(神社仏閣・木造家屋(長屋))
論文後半では実証実験なども続いて非常に面白いのだが(読んでみてください)、そこは割愛。
ここに挙げられた三要因を見た上で改めて(1)(2)論文に戻ってみると、いろいろ腑に落ちるのである。
(1)で千代田区、中央区がメディアにおいて「下町」として取り上げられていなかったり、(2)で隅田川の西側が「下町」として認識されていないのは、乱暴に言えば、街路に鉢植えが出ていたり、木造建築が多くなかったりするからなのだろう。千代田区、中央区は辛うじて「歴史性」(特に神社仏閣)の一点で「下町」になっている(住民の連帯感はあるのだが、物理的な形を取っていないので分かりにくい)。逆に、関東大震災以前に「下町」と見なされなかった地域(足立区、荒川区、葛飾区、墨田区など)は、形になっている生活感、連帯感、歴史性のゆえに「下町」として認識されている。(2)で言う「下町の西のエッジ」が山手線だったり隅田川だったりするのも、同じ理由。
辞書の定義は歴史的定義優先で書かれているので、千代田区や中央区が「下町」に入る。一方でメディアや一般人の認識はまさに(3)で言う「下町イメージの構成要因」に左右されるので、足立区、荒川区、葛飾区、墨田区など「(隅田)川の向こう」が「下町」に入る。
冒頭のイメージ写真(フリー素材)に三要因が(全部じゃないけど)含まれているのがお分かり頂けるだろうか。
この写真が「下町っぽい」のもおそらく三要因のおかげなのだろう。
モクミツ無き後の「新下町」のアイデンティティ
モクミツという言葉がある。
kotobank.jp
要は古い木造建築が密集している地域のことで、防災上問題ありということで東京都が対策を講じているのだが、まさに「新下町」地域に集中している。
前に書いたこの記事の、不燃度に関する地図を見ると分かりやすい。
www.kandazumi.com
気になったのは、不燃化が「新下町」に与える影響。
勿論防災性の向上は素晴らしいし必要なのだけれど、先程(3)で挙げた「新下町」を下町たらしめている要因の一つが歴史性、木造建築が醸し出す街並みの雰囲気それ自体なのであって、全部不燃化されちゃった暁にはどのようにして「下町」であり続けるのだろうか。
つまらない紋切り型の郊外住宅地になってしまいませんように。